浅田光輝Ⅱ.f2270_7_2
破壊活動防止法裁判

第三九回公判(昭和五〇年六月二〇日)

本多被告の死

破防法裁判傍聴記 浅田 光輝

前回公判は二月であったが、三月は裁判所の都合で休みになり、つぎの期日は四月一八日に指定されていた。

だが、そのあいだにたいへんなことが起こった。被告団の一人であり、中心的存在ともいうべき本多延嘉君が、彼の所属する党派と敵対関係にある革マル派に襲撃されて殺害されたのである。

新聞の報道によると、三月一四日午前五時すぎに、警視庁記者クラプヘ革マルと名のる男の声で電話があり、「東川口駅附近のアパートで本多に攻撃を加えた」というので、記者からの通報によって埼玉県警が駅周辺のアパートを軒なみ捜査したところ、一軒のアパートの一室で、本多君が頭をメッタ打ちにされすでに絶息しているのを発見したという。襲撃は三時すぎ、前夜おそく帰って寝込んだところをやられたらしい。新聞報道では、アパートの住民は、三時をまわったころ、アバートの前に車がのりつけ、数人がドアをドスンドスンとぶち破って本多君の部屋に侵入し、しばらくはげしい乱闘の物音がつづいて、やがて車が爆音をとどろかせて全速力で走り去ったという一部始終を現認していると報じている。だが電話線が切られていたため警察に通報できなかったという。

しかし辟地の一軒家じゃあるまいし、警察が三時に起こったこの公然たる大部隊の襲撃を、五時をすぎてから、革マルの電話でようやく知って駆けつけたなどということが、はたして信じられるだろうか。日本の警察は、公安警備では世界一を誇っている! マン・ツー・マンで、街頭のステッカー貼りまで、軽犯罪法でしょっぴくという、たいへんな警備体制である。三時から五時までのあいだには交番のバトロールもあっただろう。電話線が切られて通じなかったというアバートの住民は、車が爆音をとどろかせて走り去ったあと、おそらく、マサカリでドアをぶち破られた部屋をのぞいて、血まみれの現場に慄然とし、警察に知らせなければと外へ駈けだしたことだろう。それにもかかわらず、警察は革マルの電話による警視庁記者クラプの通報があるまでまったく知らなかったという。
 前年の一月一四日、弁護団襲撃があったときも同様であった。機動隊は、それこそ都心の警察を近くにひかえた現場に、三〇分もおくれて到着した。それとこれとはまったく同一のケースといわざるをえない。そんな間延びのした警察なら、年々増加の一途をたどる誓察予算は削減すべきだ。警察は革マルにことをおこなわせ、逃走してゆくのを見のがしているのにちがいない。そうとしか考えられない。おそらく党派テロ闘争は大いにやれ、警察はむしろそれを援助するそういう姿勢なのではないか。

事件は、革共同救対から破防法弁護団に連絡があり、弁護人が朝早く現場に飛んだ。その話だと、部屋は格闘でめちゃめちゃになっており、本多君はオノやナタのようなもので乱打されたらしく頭がばっくりと割れていたということである。本多君が寝こんだと思われるコクツの附近に、書籍が二、三冊ころがっていたというが、夜おそく帰ってきて本をひろげ、そのうちウトウトと眠りこんだところを襲われたのであろう。

前年の一月一四日に、井上弁護士や私など、弁護団が襲撃され、そのときは幸いにして死者こそ出さなかったが、数人の弁護士が重傷を負って、公判は数カ月空転した。その一年後、月こそちがえ、おなじ一四日という日に、こんどは被告団の中心本多延嘉君が寝込みをおそわれ、貴重な生命をうばわれた。破防法裁判は血まみれである。それも、権力による襲撃ではなく、「革命的何々」を自称する者による襲撃なのだ。何ということか。

本多君は、中核派とよばれる「革命的共産主義者同盟」の書記長である。そして党の最高指導者として、革マルにたいする暴力的党派闘争のなかで、それを「革命と反革命の絶対戦争」といい、「相互に敵意をもつ社会集団が物理的に衝突する以上、好むと好まざるにかかわらず死者が出るのは当然」といってきた。そういう本多君が襲撃され虐殺されたのは、党派闘争の最高資任者として、いわば「覚悟の死」というほかはない。この事件は、一年前の弁渡団に加えられたテロと、その点で根本から次元を異にしている。私として、本多君の死を何といって悼んだらいいのか、ことばに窮するのはその点だ。

本多君は被告団の中心であった。七〇年七月の第一回公判以来、 本多君が法廷で展開する論理は、革命的共産主義者の主体に立脚して、ブルジョア法体系の矛盾撞着を衝くという、説得力のあふれた堂々の論であった。これはやたら「革命」をふりまわす、形而上的なブルジョア裁判攻撃とは、根底から趣を異にする。これは裁判官にも耳を傾けさせるすぐれた弁論であったと思う。その本多君が法廷から永久に姿を消した。弁護団としても、被告団としても、衝撃はあまりに大きく、深刻である。事件直後、裁判所に公判打合せに赴いた弁護人に、裁判長からも「次回はどうしますか」という発言があったという。弁護団としては、四月一八日に指定されていた次回公判の延期を求め、五月は裁判所の都合で期日が入らないということで、結局二カ月間の空白を生ずることになった。弁護団の負傷のさいとおなじようないきさつになっていったわけである。こういうことで破防法裁判闘争を弱体化させてはならない――つくづくそう思う。破防法粉砕は全人民の課題なのだ。
(浅田光輝著『治安裁判と破防法――続 破防法裁判傍聴記』1978年4月、新泉社刊)